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もがみの伝説
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神室山と坂上田村麻呂 八森山の天狗 猿羽根の地蔵様 小国盆地のはじめ 


◆神室山と坂上田村麻呂◇ 新庄市・金山町
   かむろやまとさかのうえのたむらまろ
 神室山は、山形県と秋田県を境にする標高1365mの高峰であるが、麓の村々からは田の神・水の神として、広く信仰されている。
 むかし、神室山に加羅王・悪路王という賊が蛮居し、村人を苦しめていた。征夷大将軍坂上田村麻呂は、これを平定せんとして攻め上り、ようやくこれを山頂に追いつめ、鏑矢で射止めた。この鏑矢が山になったといい、秋田県側では神室山を鏑山とよんでいる。
 悪路王の首は山の東側に飛び、いまの鬼首に転げ落ちた。村の老人たちはこれをみて「鬼の首だ」と叫んだことから、この地を鬼首と呼ぶようになったという。しかし、賊軍はなおも鎮らなかったので、鳥海山に大物忌神を祀って平安を祈った。ところが、鳥海山にも手長・足長という魔神がおって、登拝者をとらえたり、手足を伸ばして、日本海を航行する船をひっくり返したりしていた。このため、神の怒りにふれ、山は天から火を注がれて破壊されてしまった。その一部は日本海に飛んで、飛島になったという。これを機に、鳥海の神は神室山に移ったといい、以来、神室山は年毎に繁昌し、関東地方からも行者が来るようになった。
 後年、神室山は、益々繁昌したが、反面その弊害も露わになって来た。即ち、登拝者の賽銭を目当てに悪事を働くものが現れ、博徒の巣となってしまった。これが、当時諸国を巡歴していた西明寺入道時頼の耳に入り、ついに閉山を命ぜられてしまった。
 また、閉山の理由として、行者の捧げる賽銭が余りに夥しかったので、天下の財宝が失われることをお恐れたためとか、登拝者が余りに多かったためにとか、参道の鉄鎖が切れ、多数の人命が失われたので、登拝が禁止されたとも伝えられている。 
 最上地方では神室山を西の鳥海山に対して、東のお山と呼び、厚く信仰している。神室山繁昌の様は、「新庄寿氷軒見聞集」という江戸時代の本に書かれている。

お問い合わせ先 : 新庄市商工観光課 TEL 0233-22-2111

◆八森山の天狗◇ 新庄市
   はちもりやまのてんぐ
 新庄市の東、 最上町との境にある八森山には、天狗が住んでいるという。 天狗は一人だけでなく、何人もいるらしい。八森山から神室山へと続く尾根筋では、ときどき天狗が相撲をとっているのが見られるという。この場所は、山中にありながら不思議に砂や小石が敷き詰められている平地である。こうした場所を村人は「天狗の相撲取り場」と呼んでいる。また、尾根筋の所々に水溜りがあるが、これは天狗が水垢離をとるところというので「天狗の水垢離取り場」とよんでいる。
萩野あたりでは、八森山を「お八森」とよび、この山に白雲がかかると東風が吹き、冷雨が降ると伝えている。雨乞いや日和乞いをするときは、この山に登って「おごまたき」をする。
 昔、この山が白雲に覆われ、幾日も幾日も霖雨がつづき、冷害になりそうになったので、村人は新庄の殿様に願いを立て、八森山の白雲を追い放って貰うことにした。殿様は早々大砲を持ってきて、八森山めがけて打ったが、白い雲は去らず、冷たい東風は吹きつのるばかりであった。いまも八森山の麓に「鉄砲からくり」という場所があるが、ここはこの折に大砲を据えた所だという。そこで、村人は今度は法力の優れた円満時の和尚に頼んで祈祷してもらったが、一向に効き目がなかった 
 村の人達はすっかりおこり出し、和尚が泊まっている太郎兵衛の家をこわしてしまった。 困り果てた人々は、思案の末、八森山の頂きに八寸角の欅の柱をたて神を祀ったところ、ようやく東風はおさまった。ところが、その年の冬、角柱は天狗にひっかかれ、目茶目茶にひき裂かれてしまった。村の人々は、今度は石の唐戸を運んできて山頂に祀った。この後は、それほどひどい冷害に見舞われることはなくなったという。


お問い合わせ先 : 新庄市商工観光課 TEL 0233-22-2111

◆猿羽根の地蔵様◇ 舟形町
   さばねのじぞうさま
 猿羽根の地蔵様の別当大沢家に、古くから代々「開けると眼がつぶれる。」という行李が伝えられている。あるとき、これを開けてみたら、中から地蔵・薬師・観音の小さい仏像とともに地蔵様の由来を記した長い巻物がでてきた。これには、次のようなことが記されていた。
 むかし、舟形村に大沢靭負という人がいた。彼は信心深い人で、家の中に、地蔵・薬師・観音の三尊を祀って敬っていた。
 当時、猿羽根峠は天下の難所といわれ、道は険しく、旅人の難儀は言葉に尽くせないものがあった。靭負は三尊の力によって、旅人の困難を救おうと考え、峠の中腹に小さな祠をたて、地蔵・薬師の二尊を安置した。旅人はみなこのお堂に腰をおろし、疲れをいやし、仏の功徳に感謝しつつ、再び峠道を登っていった。
ところが、年月過ぎると、お堂は敗れ、また祀られた仏像が木造であったために、泥棒や村の若者がいたずら心にこれを背負って行ったりするので、お堂の中は空となり、山賊の巣窟と化するようになった。そこで、村の人々は、この難を防ぐには石の地蔵様を安置するより他にないとして、石工に頼んで、大きな石の地蔵様を彫って貰った。 新しい地蔵様は、日ならずして完成した。宝永6年(1709)仲夏5月24日、近郷近在の善男善女がみな集まって、厳かに遷座式を行い、もとのお堂に安置した。
 この頃、舟形村に沼沢仁蔵という人がいた。長年ソコヒの眼疾を患い、失明寸前の苦しみにあった。教える人があって、一心に大沢家の薬師様を念じたところ、不思議にも快方に向いやがて全快した。
 仁蔵は深く如来の功徳を感じ、長男の石工小兵衛に命じて、新たに石の薬師如来を造らせ、更に石灯篭も併せ寄進した。吉日を選んで開眼遷座の祭りを行って、猿羽根山頂に安置した。
 乱れたこの世に舟形村の善男善女のこのような行為こそ尊いものであり、誤りなく後世に伝えんがために、右の二つの事蹟を記しておくものである。
 縁起書にはこのように記してある。その後、地蔵様は頂上に移された。以後数百年、猿羽根の地蔵様は日を追って繁昌し、縁結びの神、子育ての地蔵として、近郷の人々の信仰を集めている。祭りの日、参詣人は笹巻をもっていく風習がある。笹巻は、また、小国川の渡し場の茶屋の名物でもあった。


お問い合わせ先 : 舟形町農業観光課 TEL 0233-32-2111

◆小国盆地のはじめ◇ 最上町
   おぐにぼんちのはじめ
 この湖に、途方もなく大きな亀が棲んでいて、我こそ湖の主であると威張っていた。一方、東の権現山には、いつごろから住みついたかわからないほどの年を経た、巨大な大蛇がいた。大蛇も、このあたりの主は自分だと唱えていた。
 ある日、この2匹が湖の北はずれでばったり出会い、湖の主は俺だと口論をはじめた。口では、なかなか埒があかないので、2匹は腕ずくで雌雄を決することにした。
 2匹の決闘は、湖の中ではじまった。死闘は七日七晩ぶっ通しで行われた。湖水は渦まき、逆巻く怒涛となって、天地をゆるがした。しかし、次第に力尽きた大亀は、西はずれの山に大きな穴をあけて逃げ出した。大亀は、湖の水はもともと俺のものだからといって、山を掘り割って、水を全部落としてしまった。その場所は、いまの瀬見あたりであるという。 
 また、近くの山を亀割山とよぶのは、このためであると伝えている。
 やがて、湖の水がひいてその後に一大盆地が現れた。いまの小国盆地は、このようにして出来上がったという。また、次のようにも伝えている。
 むかし、この湖に3つの頭をもった、たとえようもない程大きな大蛇が棲んでいた。あるとき、大蛇は雲を呼び、嵐をおこし、竜巻をつくって天に昇ろうとした。すると、その時、ふいに湖の底から大きな蟹が現れて来て、大蛇の尾をはさんだ。たちまち、2匹のすさまじい戦いが始まった。 
 このため天地が揺らぎ、ついに西山の一端が崩れ、湖水が流れ出し、後の小国盆地が形づくられたという。大蟹が山を割ったというので、はじめは蟹割山とよんだがいつとはなしに亀割山になってしまった。
 現在の月楯の弁天様は、この大蛇を祀ったものであり、蟹ノ俣観音はこのときの大蟹を祀った観音様であるという。また、「たたかい沢」は、この時2匹が戦った場所であり、たたかい沢観音は、ここに落ちた大蛇のうろこで作ったものと伝えている。
 大蟹のはさみで断ち切られた大蛇は3つに分かれ、頭は野頭に、胴は仲神に流れつき、尾は遠くまで押し流されて、今の長尾にひっかかったという。野頭・仲神・長尾の地名はこのことに由来するという。


お問い合わせ先 : 最上町交流促進課観光係 TEL 0233-43-2111

参考資料 : 山形県最上総合支庁発行「かむろの郷ふるさと発見の小径」より
 
義経・弁慶伝説◇ 戸沢村・新庄市・舟形町・最上町
与蔵沼 鮭川村
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