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おくの細道(俳人松尾芭蕉)
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封人の家 山刀伐峠 芭蕉句碑と柳の清水跡 芭蕉乗船の地      


○俳聖・松尾芭蕉の足跡めぐり


 鳥海山、月山、神室連峰などの山々に囲まれ、雄大な最上川が流れる山形県最上地域。
日本海と太平洋を結ぶ最上小国街道は、いにしえより多くの人が行き交い、長い歴史が刻まれています。中でも俳聖芭蕉の足跡と悲運の武将義経にまつわる伝説は数多く、地域の中で脈々と語り継がれてきました。
 これら先人たちの足跡をたどる旅で、はるかな時代を記憶する風に出会えるかもしれません。


○芭蕉がたどった義経北国落ちの道

 義経一代記「義経記」によると、源義経が兄頼朝の追っ手から逃れるべく、北陸から奥州平泉に向かう途中に最上地域を通ったのは、文治3年(1187年)のこと。清川から最上川をさかのぼってきた一行は、本合海から陸路をたどりますが、舟形の関所(一ノ関)を回避するため、亀割山を越えて瀬見に向かったとされています。
 そして、46歳の松尾芭蕉が門人曾良を伴ってみちのくの旅に出たのは、その約500年後の元禄2年(1689年)3月27日(陽暦5月16日)奥州平泉で藤原三代の栄華と義経の最期を偲んだ芭蕉は、悲運の武将を追慕するようにそのゆかりの地を逆にたどっています。


「月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也・・・」

◆最上町◇  1689年旧歴5月15日〜17日(陽暦7月1日)
             最上町堺田 封人の家2泊

 封人の家(重要文化財旧有路家住宅
「封人の家」とは国境を守る役人の家のことで、仙台領と境を接する新庄領堺田村の庄屋住宅兼役屋(役場)で、問屋と旅宿の機能も併せもっていた旧有路家住宅であったといわれています。元禄2年(1689)旧5月15日、俳聖松尾芭蕉は門人の曾良をともなって仙台領尿前の関を越え、出羽の国へと旅路を急ぎましたが、もう日暮れ頃になってしまって2泊3日にわたって逗留しました。
大山をのぼって日既暮ければ、封人の家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨あれてよしなき山中に逗留す。

  「蚤虱 馬の尿する 枕もと」 (「おくの細道」)
と芭蕉は「おくのほそ道」に綴っています。梅雨時の大雨のため、いたしかたなく17日まで2泊3日、この家に滞在したのだと言われています。曾良は「17日快晴、堺田ヲ立ツ」と日記にしたためていますが、二人は主人から案内の若者をつけてもらい、山刀伐峠の難所を越えて、尾花沢の鈴木清風を訪ねて行ったのです。

 山刀伐峠
封人の家を後にし、芭蕉と曽良は尾花沢を目指しました。その途中越えたのが山刀伐峠です。奥の細道に「高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜行がごとし」と記されている通り、相当の難所であったことがうかがえます。歴史の道保存整備事業では、この間道のうち堺田〜笹森間を出羽仙台道中山越の名称でとらえました。笹森は出羽仙台街道中山越の交通上、きわめて重要な位置を占めていました。ここは駅場であり、しかも小国郷では最も格式の高い口留番所(くちどめばんしょ)も置かれていました。集落内の高台に口留番所があって、その前を通る旅人や荷物を厳しく取調べていたのです。笠森の西端を出ると、近世道は2つに分かれ、その一方が南に延びていました。新屋(あらや)から明神、万騎(まき)の原、赤倉、一刎(ひとはね)を通り、山刀伐峠を越えて尾花沢へ向かう間道でした。歴史の道保存整備事業では、この間道を山刀伐峠越の名称でとらえました。 
山刀伐峠は標高470mの峠です。峠の形状がかつて山仕事や狩りの際にかぶった「なたぎり」というかぶりものに似ていることから峠名が発生したと言われています。旧道は、「27曲り」と呼ばれれてきたほどの曲がりくねった山路です。わずかに残るブナの原生林が、「高山森々として一鳥声きかず・・・」という芭蕉当時の情景を今に伝えています。

お問い合わせ先 : 最上町交流促進課観光係 TEL 0233-43-2111

◆新庄市◇
  1689年旧歴6月1日 
             新庄市渋谷甚兵衛(風流)宅 2泊

 芭蕉句碑と柳の清水跡(市指定史跡)

奥の細道を辿るべく長途の旅に出た芭蕉と門人曽良が、新庄入りしたのが元禄2年(1689)旧6月1日のことです。 「柳の清水」は昭和前期までは豊かな清水が湧き出ており、芭蕉もこの清水を呑んだのでは? 風流亭(渋谷甚兵衛)に2泊、歓待を受け地元の俳人と俳諧を楽しみ歌仙を残しています。この「水の奥」の句は、風流を訪ねた時に詠んだものであり、その句碑は芭蕉ゆかりの「柳の清水」の傍らに立っています。 
    
  「水の奥 氷室尋ぬる 柳かな」

「氷室」とは、天然の氷を夏まで貯蔵するための穴や小屋のこと。「こんな冷たい清流が流れてくる源にはきっと氷室でもあるのだろう」と詠んだものです。


 
 芭蕉乗船の地 

本合海は新田川が最上川に注ぎ込む川口に位置し、古来水陸の要衝として栄えてきました。

  「五月雨を 集めて早し 最上川」

1689年芭蕉が舟に乗って最上川を下ったのがこの辺りで、「奥の細道紀行」300年を記念して、芭蕉と曽良の陶像が、平成元年建立されています。なお、平成10年には、県の最上川ビューポイント10選に選定され、平成12年には、本合海船着場も復元されました。

 芭蕉と新庄
 長旅の後、6月1日に新庄に入った。氷室の節会のこの日朝、大石田を発ち、猿羽根峠を越して新庄城下に着いたのは、正午もかなりまわったころであろうか。二人は、城下の入口にある「柳の清水」で喉をうるおし、身なりを整え、豪商渋谷甚兵衛の家に入った。
渋谷甚兵衛は、南本町に店を構える領内第一の豪商渋谷九郎兵衛盛信の弟で、俳号を風流と言い、俳人としても有名であった。芭蕉を新庄に招いたのは、実はこの風流であった。
芭蕉は風流の心をつくしたもてなしに感謝し、水の奥 氷室尋ぬる 柳かな」の句を詠んだ。
これに対して、風流は、「ひるがほか々る橋のふせ芝」とこたえて、喜びの心を表した。
また、同行の曾良は、「風渡る的の変矢に鳩鳴きて」と詠んで士道の盛んな新庄の土地柄を褒めている。
翌日、芭蕉と曾良は盛信の家に招かれ、土地の俳人たちと膝を交え、歌仙一巻をまいた。曾良の「俳諧書留」にこの日、芭蕉と座をともにした新庄の俳人として、風流・弧松・柳風(盛信の息)・如流・木端の5人を挙げている。同書に明記はないが、これには盛信自身も加わったのではないかと思われる。曾良の同じ書に、芭蕉が盛信亭で主人と交わしたあいさつの句として、

  「風の香も南に近し最上川」    翁
  「小家の軒を洗ふ夕立」   (息)柳風
  「物もなく麓は霧に埋れて」    木端

の三句が記されてある。ここにも、芭蕉の感謝の心と、彼を迎えて心を躍らせている柳風らの喜びをうかがうことができる。
 6月3日(7月19日)風流亭に二泊した芭蕉と曾良は、新庄を出立、本合海から最上川を下り、羽黒山に向かった。途中
「五月雨を 集めて早し 最上川」の名句を詠んだ。
この後、多くの文人墨客が芭蕉の遺芳を偲び、彼の足跡をたどった。天明元年(1781)新庄を訪れた俳人大島寥太もその一人である。新庄俳人たちはこれを記念して、芭蕉の「水の奥」の句を刻んだ碑を建立した。金沢新町「柳の清水」跡に立っている句碑がこれである。
 平成元年、新庄市は芭蕉来新300年を記念して、芭蕉の句「風の香も」を刻んだ碑を盛信亭(現新庄市本町/山形銀行新庄支店)に近い市民プラザ前に建立した。句は九郎兵郎盛信のご子孫で、俳人の渋谷道氏の揮毫によるものである。芭蕉の余慶は昭昭として今日に及んでいる。


お問い合わせ先 : 新庄市商工観光課 TEL 0233-22-2111


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