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義経・弁慶伝説ガイド
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最上地域には、義経・弁慶に関する伝説が数多く残っています。室町時代に書かれたとされる義経一代記「義経記」によると、兄源頼朝の追っ手を逃れ岩手県平泉に向かう途中、文治3年(1187)に、最上地域を通ったとされています。悲劇の武将として伝えられる義経に、哀れみと親しみを感じ、各地に伝説が残ったのではないかと思われます。 


義経・弁慶の足跡めぐり


『義経記』に沿いながら最上地域の通過スポットをたどり、
一行の足跡を歩いてみましょう。

義経北国落ちまでの道のり

平安時代末期、平氏追討に大功のあった義経は、兄頼朝と対立し追われる身となります。 西国へ向かう舟が嵐で押し戻されたり、吉野山では僧侶たちの反対に合います。安住の地は以前世話になった藤原秀衡が治める奥州平泉しかないことから、北国行きを決心します。
全員が山伏のいでたちをして、越前国(福井県)から日本海沿いに北上し、文治3年(1187)鼠ヶ関から県内入りします。
鶴岡市を経由し、北の方が身重だったため、弁慶だけが羽黒山を代参します。一行は、清川で弁慶と合流し、舟で最上川をのぼります。

●最上地域の通過スポット

 『義経記』に記され、義経一行にゆかりの深い
           最上地域の通過スポットを紹介します。


  ★その1・・・最上川遡行 「義経記」巻第七 判官北国落ち

一行は、舟に乗り最上川をさかのぼった。舟は雪解けの増水でのぼるのに苦労した。 白糸の滝を見て北の方が「最上川瀬々の岩波堰き止めよ 寄らでぞ通る白糸の滝」最上川岩越す波に月冴えて夜面白き白糸の滝」 という和歌を詠んだ。やがて、「鎧の明神」「冑の明神」を拝み、「たかやりの瀬」の難所を上り、「たけくらべの杉」を見て、 矢向の大明神を伏し拝み、合川の津(現在の本合海)についた。

白糸の滝 最上峡 幻想の森 八向楯
落差124mは全国6位 (よろい)の明神・冑(かぶと)の明神 たけくらべの杉 矢向大明神

 その1・・・亀割山で北の方お産  「義経記」巻第七 判官北国落ち
亀割山を越える途中、北の方のお産が近くなったので、大木の下に皮を敷き、お産場所と定めて宿にした。お産が始まり、北の方が「水を」と言ったので、弁慶が谷を目指して降りていった。
弁慶が戻ってみると、北の方は息も絶え絶えであった。弁慶が汲んできた水を飲ませ、南無八幡大菩薩に祈ったところ、無事に出産することができた。
産まれた子どもは、亀割山の亀と、鶴の千歳になぞらえて「亀鶴御前」と名づけられた。(最上地域では亀若丸と呼ばれている)。まだ、平泉までは遠く、道行く人に疑われてはいけないので、篠懸(すずかけ・山伏が衣服の上に着る麻の衣)で包み、笈の中にいれた。山を下るまでの3日間、 一度も泣かなかったのは不思議である。その日は「せひの湯(現在の瀬見温泉」」で一日中疲れた体を癒した。次の日は、馬を用意しそれから栗原寺に向かった。

 その後・・・
義経一行は、平泉の藤原秀衡宅に着き安堵しますが、まもなく当主秀衡が病気で他界します。その後、秀衡の息子・泰衡は、頼朝の脅迫に耐えられず義経を襲います。

 「義経記」とは・・・ 
源平合戦で活躍した源義経の一代記。「平家物語」では詳しく語られていなかった伝説が、ふだんに盛り込まれています。義経という人物に興味を抱いた当時の人たちが、国有の義経像をプラスして、各地に残る伝説などを取り入れ一代記物語としてまとめられたものです。作者未詳。成立は室町時代(1370年以降)

義経・弁慶伝説 ・ 観光スポット
奥の院(おくのいん) 最上町亀割山(かめわりやま)
峠の頂を越した所で北の方がお産した。 水をほしがる北の方のために弁慶が法螺貝を大地につきさして神仏に祈り、霊水を得た。後の「子安の清水」。 法螺貝は「子安貝」と化して、今も岩の間から時折発見される。「義経北の方御産の跡」の石碑がある。 和子は峠の名から「亀若丸」と命名。亀若丸が使った枕石「子枕石」が峠中腹に残っている。
腹巻岩(はらまきいわ) 戸沢村草薙(くさなぎ)
弁慶が腹巻をとって乾かした岩。横縞の腹巻のような模様がついた。
仙人堂 (せんにんどう) 戸沢村高屋(たかや)
義経の従者常陸坊海尊が一行と分かれて山伏修行の後仙人になった。仙人堂は海尊を祀っている。舟乗りの安全と稲作を守護する神社。この神は虫を嫌うので、ここのお礼を田んぼの水口にさすと稲虫がつかないという。
馬爪岩(うまづめいわ) 戸沢村沓喰(くつはみ)
義経の馬がくたびれて泡をふいたので、くつわをはずして洗った所。「くつわはめ」から「くつはみ」になった。また、「うまづめ」という岩があり馬の足跡が残っている。(最上川舟下りの船上から見られる。)
10 判官神社(ほうがんじんじゃ) 新庄市休場(やすんば)
亀割峠を越すべく新田川をさかのぼる途中、くたびれて休んだ所。後に休場と呼ぶようになった。途中弁慶が 「うとうと」 したところを「うと坂」と呼んでいる。休場に義経を祀った「判官神社」があり、安産の神として広く信仰されている。神社を守る次郎兵衛家では餅を供え「判官祭り」を行っている。
11 弁慶の切石山(べんけいのきりいしやま) 新庄市亀割峠(かめわりとうげ)
亀割峠の途中、道を塞いだ大きな岩石を弁慶がなぎなたで断ち切った。亀割峠の麓、道の左側にそびえている四角の柱をたてたように切り立っている岩山のこと。
12 弁慶の一タンガラ(べんけいのひとたんがら) 最上町大堀(おおほり)
お山王森の別名。柴をまげて縄をからんだ田籠(タンガラ)にいっぱいの土を弁慶が背負って来て伏せ山になった。
13 月楯の弁天様(つきだてのべんてんさま) 最上町月楯(つきだて)
北の方が難産で苦しんだ時、月楯の弁天様に祈願して無事出産できた。通過する時、弁慶が代参した。
14 亀割子安観音(かめわりこやすかんのん) 最上町瀬見(せみ)
北の方がお産をした際に加護のあった観音様を祀っている。子授かりと安産の神として信仰されている。
15 山神社(やまのかみしゃ) 最上町瀬見
産屋を建て、北の方がしばらく養生した所。後に村人が山神社の祠を建てた。弁慶が笈を掛けて休んだ桜「笈掛け桜」が近くにあったといわれている。
16 薬研湯(やげんのゆ) 最上町瀬見
産湯を探して谷川を下った弁慶が、川辺に湯煙を見つけ、なぎなたで岩を砕いたところ温泉が湧き出てきた。
17 産湯(うぶゆ) 最上町瀬見
弁慶が岩を割って見つけ出した温泉は、今の「薬研湯」で自然の岩風呂である。産湯のモニュメントは飲泉が可能。
18 弁慶の投げ松(べんけいのなげまつ) 最上町瀬見
弁慶が亀若丸の誕生を祝って、峠の頂上から投げた松が、瀬見温泉駅から温泉に向かう途中に根付いている。
19 弁慶の硯石(べんけいのすずりいし)  最上町瀬見
亀若丸の名をつける時、弁慶が硯として墨をすった岩。近くに弁慶の足跡や馬の足跡のついている岩がある。
20 判官楯(ほうがんだて) 最上町瀬見
北の方のお産の肥立ちまでの間、見はりをしていた所。笈の沢を上った西側。

地 名 伝 説
瀬見温泉(せみおんせん) 最上町瀬見温泉
弁慶が使ったなぎなたの名が「せみ丸」であったから。
亀若丸が落人の身である事を知って一度も泣かなかったので「泣かぬ蝉」から。
傷を負っている蝉が、温泉の上の木に止まって湯煙で湯治をしていたから。
21 弁慶山(べんけいやま) 真室川町
一行が庄内からこの山を越えて最上に入った。 真室川町小国の佐藤家には、一行が宿お礼に置いていった大日様の掛け軸がある。
22 金打坊(かねうちぼう)  戸沢村金打坊
弁慶が羽黒山からもらって来た鐘撞棒が邪魔になり、投げ捨てた場所。
「鐘つき棒」が「金打坊」に変化。
23 実栗屋(みくりや) 舟形町実栗屋 
最上川をさかのぼる途中、義経と弁慶がはぐれ、実栗屋で巡り会った。
「巡り合い」が「実栗屋」に変化。
24 折渡(おりわたり) 舟形町折渡
弁慶が笈を橋にして渡った所。「笈渡」が「折渡」に変化。近くに「笈掛けの松」がある。
25 鳥越(とりごえ) 新庄市鳥越 
本合海で舟を降り、小国川沿いに東に向かう途中 「一の関」 という村を関所と思い、舟形から北に進んだ。 山際の村で一番鶏が鳴いたので鳥越と呼ぶようになった。

義経豆知識
●判官(ほうがん又ははんがん)
 律令制の四等官の中の第三位。義経記では、義経を職名の「判官」と記述している。
●判官(ほうがん)びいき
 義経のような不遇の英雄に世間が同情し、ひいきにしたことから、形勢の悪いほうを応援すること。
●「義経北国落ち」と「奥の細道」
 今から 800年前、義経は日本海沿いに北上し、最上川をさかのぼって平泉を目指しました。その502年後、俳人松尾芭蕉は、江戸(深川)を出発。 平泉を経由し最上川を下り日本海沿いを南下し、美濃(岐阜県)まで156日間の旅をしました。 歴史上の二人が、時代を超えて奇しくも同じく最上川を通ったことに歴史のロマンを感じます。

                 
資料:最上地域に残る義経・弁慶伝説ガイドより 発行:最上総合支庁

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